清明祭

「清明祭」は中国から伝わったともいわれ、第二尚氏王統第十四代尚穆王によって、ご先祖の霊を祭る年中行事として定まった。はじめは首里や那覇を中心とした士族の間で行われていたが、次第に那覇や地方、農村へと伝わり、国家安泰、五穀豊穣、海路安全、一門融和を祈願する年中行事となったといわれる。

戦前、久米系ではお盆より盛大に行われ、大祖、中祖、小祖の順に一か月ぐらいかけて実施された。当時の毛氏門中清明祭は、ムイメー(清明祭の総まとめ役)に当たった長老家が輪番で担当し、毎年5 月には一年間の収支計算をしてその結果を「ジンバク(銭箱)」に入れて紐で結び、封印して次のムイメーに当たった長老に引き継ぐ慣わしであった。ムイメーに選ばれるのは門中の財産家で、人望の厚い長老たちが輪番で担当した。その費用(ウサカティ)の捻出は、各家庭が経済状態に応じ会費を負担をするものの、それでも捻出は大変でムイメーに当たった長老家にはかなりの苦労があったと推測される。各家庭が負担するとはいえ、遠隔地の門中出身者や生活の厳しい世帯にとっては、それもままならない。そのため一門が結束し融和と親睦を目的とする門中行事から疎遠になることが憂慮された。そこで長老たちは、その費用の捻出に寄付制度の導入や共有土地の貸地料収入を充てた。さらに、長老や有志の会員が中心となって、模合(頼母子講)を起こしてその費用を捻出するという方法でムイメー負担の軽減を図るようにした。こうして、ムイメーに当たった長老家では諸準備も女性を中心に行われ、お供え物や参詣者用ウサンデー(お下がり)まで整えなければならず、当時の女性達も大変な苦労をしたと思われる。

「春四月、木々は緑に包まれて、風はさわやかに頭上で松風の音と小鳥のさえずりを聴きながら、のどかな桑畑の風景を見やりつつ、一族男子だけ八十名ぐらいが参加し泡盛で和気あいあいと談笑し、年に一度子孫が集まって如何に楽しく、そして先祖崇拝の精神を高め、門中の親睦を深めた催しであった」(吉川其義氏記述引用)

戦後の「門中清明祭」は、避難先からいち早く那覇に戻ってきた長老が中心となり、文字通り無の状態からスタートした。テント小屋や割り当てられた土地及び規格住宅、さらに物資も乏しいという状況のなか、門中会の復活と共有財産の確認作業を始めた。彼らは先祖を崇拝する一途な想いで寄付金を集め昭和23年(1948)4月戦後初めての清明祭を行うことが出来た。

その後、返却された土地の貸地料が増えるようになり、清明祭を始め他の祭事も総て賄えるようになった。準備についても当時の住宅事情から準備する場所もないため、しばらくは役員が手分けして食材を調達し、本家に持ち寄ってお供えした。若者達はウサンデー用に適量ずつ折り箱に詰めるなどの準備をして、つめかける参加者に対応した。

戦後の民主化とともに、これまでの男性会員のみの参加から、やがて老若男女が参加するようになっていった。今では総勢四百人余の参加に至っている。

なお戦前、門中清明祭を行う毛国鼎公の墓地は当時の地図に唐人墓とあり、うっそうとした樹木に覆われた墓前に溜池がある静かな所であった。今や周辺も市街地化し、戦前のような面影や風情は全くないものの、独特な形状の墓とあって、道行く人達が市街地の何かの記念碑と間違えて訪れることがある。

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