安里墓所について
同御墓所は国王から賜った御拝領墓である。元祖毛国鼎公一人を奉ってある。墓碑をとりまく石垣は高さ78糎、厚さ60糎、底辺140糎の八角形の墓である。御墓所の前にため池があり、この池を硯に例え立って居る石が墨、松は筆と教えられ学問を象徴した縁起の良いお墓だからと、代々伝えられた。
毛国鼎公の室思玉は、国鼎公亡き後11年目順冶7年9月27日77歳で亡なった。毛姓3世文善におかれて、若狭原ウシモー與奇之崎に200坪の墓地を求め本家の御墓を造り2世世顕を初め与世山本家代々の先祖を弔った。
一方安里墓所について特筆すべきは東風平間切友寄地頭8世与世山汝霖爺である。爺は宗家当主として常に門中親睦に気を配り諸行事に中心になり行動され一門の団結を図ってこられたが、今般門中の為に感ずるところあり安里の総坪数355坪を当時の門中長老と相談になり、財産保全の英断をもって門中基本財産に提供したと聞き及ぶ。いままでの長男だけが悩んだ「個」の時代から、これからは「団体」での問題解決が得策だ。との考えがその深層にあったのかもしれない。その先鞭を他久米村門中で一番先に認識したものと思われる。
この事柄以来一層一門の団結は強固なものになる。
戦前の清明祭(ウシーミー)の模様は以下のようである。
時は春爛漫4月、神徳寺八幡宮周辺の木々は緑に息吹、周辺桑畑から風澤かに松風の音と小鳥の囀り、前庭にあるクムイには水面にターイユやアヒルが戯れる長閑な風情のなか、(前日から門中壮年男女総出で準備した)御三味を肴に泡盛で和気藹藹裡に門中男子が安里墓所に打ち揃い年に一度懇親談笑する。そうして先祖崇拝の精神を高め、門中の親睦を深めたであろうことに相違ない。
組織としては、戦前の門中会が所持していた土地を元利資本に、再び会を隆盛させようと、戦後いち早く、1946年島内疎開者が帰還したのを皮切りに、吉川其義氏を中心に当時壷屋在住(那覇市の門中在住者は少なかった。多くの門中一門は地方に分散、戦争で離散家族も多かった由)の奥間永照氏、吉川采昌氏、松尾在住の与世山清貞氏、その後奥間善慶氏等の方々は財産保全を目的とする毛姓有力者9名が、那覇地区を中心に毛姓共有財産管理人として正式に土地所有権確認申請書を提出して確認され後日登記を完了した。当時は地主であっても、自分の土地は使用できず総べて区長権限であったので勿論土地賃貸料等ある筈がなく1948年4月の元祖清明祭(ウシーミー)は、門中勢有志の寄付で戦後始めて行われた。その後壷屋(現三原)が開放され上間製材所に賃貸され、その後も続々土地が返還されたので1949年以降の清明祭(ウシーミー)は貸地料の収入のみで賄れた。
土地も次々に会に戻れたのを機に貸地料も増え事務量も帳簿整理等が、煩雑になったので評議委員の協議の結果、毛姓門中会として会長に奥間善慶氏、副会長には奥間永照氏、吉川其義氏を選出し、会計は永照氏が兼務した。
ここに「宗族の団結と集結を図る」大前提の基、一門の努力により復活を遂げたのである。
1952年3月に戦後初めて門中の主催で学事奨励会を行い在学生に学用品を贈り激励した。この学事奨励会は毎年続行され那覇.嘉手納.中部.南部の4地区に分け3月末から4月に亘って那覇地区は安里墓所(現在は久米国鼎会館)で、その他の地区は役員宅で会から出張して行い師弟の学業向上に努めている。1953年1月安里墓地の復元工事も垣花輝庭氏、安仁屋維垣氏、桑江潤之氏幾多の方々の尽力等、また会員が雑工事の手伝いなどを無料で奉仕してもらい、戦前の原型通り、元祖毛国鼎公の御拝領墓が再現された。また工事を契機に340年ぶりに毛国鼎公の洗骨の儀が与世山秀八氏、長男与世山喬氏により執り行われた。
1953年1月の総会で毛姓門中会会則を制定して会長1人、副会長2人、監事2人。評議委員16人構成で会長に奥間善慶氏、副会長には奥間永照氏、吉川其義氏を選出し、監事に奥間鳴庭氏と安仁屋正昌氏が選任され、正式な毛姓門中会が発足した。1956年1月の第2期総会で新会長に吉川其義氏、副会長には奥間得寿氏、安仁屋維垣氏、を選出し、監事に奥間伸栄氏、桑江潤之氏を選出した。また新たに安仁屋正昌氏が顧問に推戴された。
1956年7月那覇市教育会館で2議案の承認をうけるため臨時総会を開催した。
- 育英資金貸与規定
- 元祖毛国鼎公の来琉350年祭記念式典の挙行
総会で承認を受けたので早速準備にかかり、記念碑の建立を始め、諸般の準備を整えて菊花薫る1956年11月11日の吉日に祭典は挙行され、広大な墓所も全島各地から集まった500人以上の子孫で満ち溢れた。式典は祭主宗家第12世与世山秀八氏の祭主奏上に始まり、祭典委員長毛姓門中会会長吉川其義氏の式辞朗読、来賓式辞の後、物故功労者10世桑江章鉅爺に感謝状贈呈、各家に記念品を贈呈して門中有志と奥間英五郎一座による奉納演芸があって盛会裡に終了した。
多年の懸案であり、会の重要な事業でありながら多額の基金を要することから、中々実現されなった育英事業も検討の結果、会の財政上給付制は不可能でも貸与方式なら可能であるのが分かり1958年4月愈々実現となった。その内訳は本土大学月額B円2000円、郷土大学月額B円1000円として卒業まで無利息、無担保貸付で償還は卒業して6か月据え置き7か月目から月額の金額返済、その基金は一般会計からB円30000円に達するまで、毎年育英資金特別会計に繰り入れることにした。
1959年ごろから任意団体である門中会をさらに発展させ一門の範疇から社会全体からも認知できうるような、より広範囲な法人組織にしたいとする要望が多くなり、会に於いてはこれに備え1955年ごろから着々準備を整えつつあった。
会の育英事業が軌道に乗りかけたのを期に、1959年3月1日法人組織委員会を発足させて研究を進め、12月12日正案を得て1960年2月21日公益社団法人組織設立臨時総会を開催して、定款の承認と機構の改選役員の選出を行って、従来の評議委員を理事に改めた。会長に吉川其義氏、副会長には桑江潤之氏を選出した。結束を固めつつ、その波及を各地の有志に呼びかけ、公益社団法人組織にむけた説明会を、各地区ごとに開催しその間の事情を誠意を込め役員全員が夜間に手弁当で説得して回った。島尻地区、沖縄市、嘉手納読谷地区の会員の行く末も交え、毛姓門中会発展を希い1960年4月25日公益社団法人としての設立を琉球政府に申請して、幾度となく折衝を重ねた。当時琉球政府官房長だった門中会員与世山茂氏などの尽力なども加わり7月に教育庁の内諾を得るに至る。
ここに1960年8月14日その名称を社団法人久米国鼎会としての設立臨時総会を開催して、会名変更と定款一部改正について万場一致をもって承認され1960年8月20日正式に申請書を提出して1960年9月8日公益法人民法34条許可(当時の琉球政府第369号=教育庁所管)として、その設立を行政主席から許可されて、ここに民法34条による社団法人久米国鼎会が誕生し長年の会員の念願が適ったのである。
1961年4月9日元祖清明祭を午前中に執り行い午後からは場所を那覇劇場に移し永年会員が願望して已まなかった法人組織成立の祝賀会と戦後焦土の中から立ち上がり今日を築いた門中会再建十周年記念式典及び功労者表彰と、会の先輩諸氏に対する慶賀の念を図り第1回敬老会を挙行した。
1970年12月25日定款改正の承認を受けるために臨時総会を那覇劇場に於いて開催して満場一致でその改正案が承認された。
組織の創生期(終戦後から15年経過頃)から幾多の土地所有権名義書換問題、戦前から持ち越した難問題は相続から端を発した土地返還業務等などで難題山積、かなりの土地賃借人及び関係地主との間で調停を重ね、大方双方の示談和解訴訟などの過程をへて解決に至った。
その経験がバネになりその後の幾多の土地で、門中会の努力が功を奏し、一定規模の財を為した。門中会事務所も樋川、安里、壷屋、三原、ふたたび安里と役員宅を転々とした小さな間借り事務所も戦前戦後を通し始めて自社ビル『安里国鼎会館ビル』を1982年完成させ、その殿堂が完成できたおかげで会務も一段と向上し会員全員のシンボルになる。
2007年には始祖毛國鼎公が琉球に帰化して400年の記念すべき年にあたり、終戦後50有余年も過ぎ痛みの進んだ墓所をこの機会に改修する工事に2004年6月から着工した。2007年夏には新装の毛國鼎公墓所が竣工お披露目するのと、同時に400年の節目に当たりこれまで活字に為り得なかった資料群等を集大成した記念誌『鼎』を2008年に刊行した。